調べてみたら面白い

2022年9月1日 ご近所には、大きい側溝が多いことが気になっていた。

この付近は地盤が低く水が出やすいのかと思って、ハザードマップを調べてみたが大したことはなかった。一安心。
側溝の水は、夏場でも枯れたことがない。

どこから流れているのがGoogieマップでたどってみたら、伊達政宗の時代にたどり着いた。
この側溝は、伊達政宗の時代に作られた六郷堀・七郷堀と呼ばれる水路だった。

当時、米の増産のため作られた農業用水の堀であった。水は、広瀬川がら取水され堀を流れてる。
→こんな近くに歴史的な物があるとは・・・

散歩を兼ねて見学することにします。 →後日、アップしたいと思います。

<<< 六郷堀・七郷堀の歴史 >>>

伊達政宗が城下町を作った時代(1601~)
堀は農業用水として作られ米の増産が行われた。

1611年に大津波が発生、六郷・七郷地区に大きな被害が出た。
この時、七郷堀の整備が進んだと思われる。
→七郷地区(南小泉、蒲町、荒井、六丁目、伊在、長喜城、霞目、荒浜)
(荒浜・南小泉のどちらかを外して七郷としている記述もあります。)
こんな情報もあります。
明治22年(1889年)4月1日 – 町村制施行にともない、荒井村・伊在村・霞目村・蒲町村・長喜城村・六丁目村・南小泉村・荒浜の計8か村が合併して七郷村が発足。

六郷堀は、伊達政宗の居城として1628年に造営された若林城(現宮城刑務所)の堀に続いている。
→六郷地区(沖野・飯田・日辺・今泉・種次・二木)

伊達政宗が死ぬと、その霊廟である瑞鳳殿造営にともなう移転によって、予定地そばに住んでいた染師(染物職人)は2か所に移転させられた。城下中心に近い上染師町と、南東に外れた南染師町であった。南染師町に移った染師は七郷堀の水を染色に用いた。

細かな流路について江戸時代の記録はないが、明治時代初めには、小泉堀、荒井堀を分けた後、さらに北か北東に流れつつ、院主堀、岡田堀を分け、舟挽堀に合流した。これらの分流は、いずれも七郷堀の右岸方向、東に向けて分かれた。

七郷堀の取水場所の少しばかり川下に六郷堀の取水場所があった。そのため渇水時には六郷堀に水が入らなくなり、水争いが絶えなかった。そこで1954年に愛宕堰を設け、ここから一つの水路に導き、途中で分水する形に改めた。

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